自然に向き合い
最高の食中酒を
追求する酒造
松浦酒造有限会社
代表取締役
松浦 文昭 Matsuura Fumiaki
藩政時代に創業し、2022年で250年を迎える松浦酒造。14代目を継いだ松浦さんはオーナー杜氏として、毎年スタッフと共に日本酒造りに勤しみます。
松浦さんが開発したスパークリング日本酒『鮮』は、2013年のアフリカ開発会議(TICAD5)公式晩餐会にて乾杯酒として提供されたこともあり、今なお多くのファンを虜にしています。決して大きい酒造ではありませんが、丁寧な日本酒造りを心掛けているのが特徴です。
今回は14代オーナー杜氏の松浦さんに、日本酒の魅力、オーナー杜氏として引き継いでからの苦労、そして会社としての今後の展開についてインタビューしました。日本酒造りに関心ある方、自然を相手にする仕事を知りたい方は必見です。
(2022年8月インタビュー)
山中温泉と歩み続け
創業250年の酒造
開湯1300年余の歴史を持ち、湯治場として繁栄した山中温泉。その温泉街の中心地に構えるのが『松浦酒造』です。酒造業を始めたのが1772年で、2022年で250年目を迎えます。
歴史を辿ると、元々は筑紫(現在の佐賀県あたり)に先祖がいたらしく、一説によると古九谷開窯のためにこちらへ来た伊万里焼職人で、北前船で渡ってきたようです。筑紫屋を屋号に1600年代までは油屋でしたが、江戸中期頃に電気が普及する世の中を見据えて、酒造業に切り替えたようです。
これまで数多の困難を乗り越えてきた酒造ですが、そこから培われた教訓は今なお活きています。昭和6年(1931年)の『山中の大火』では、温泉街全体が被災しました。当時は酒造所・販売所・自宅が一か所に集中して立地していたので、火事で全て消えてしまったんです。再建時にそれぞれを別々のところへ立地させたのは、リスクヘッジとして分散化させる大切さを身に染みて学んだからなんですね。
またバブル崩壊の際には取引先のいくつかが倒れてしまい、私たちの売上も落ちていくことを経験しました。それからはなるべく納品先が集中しないように、先代オーナーが取引先開拓に努めるなどして分散化に努めてきました。また生産量が落ちても良い日本酒を造っていきたい、そんな丁寧な日本酒造りへ舵を切ったのもこの頃からです。
最近では新型コロナウイルスの影響で、地域の観光業・飲食業が大打撃を受けてしまい、当然私たちにも影響がありました。それでも先代から努めてきた取引先の分散化、そして個人客への小売販売によってなんとか持ち堪えています。当社の長い歴史と経験から培った「分散化」と「丁寧な酒造り」は、企業経営に活きる教訓となっています。
今後は生産量とのバランスを考慮したうえで、海外輸出の比率を上げることも検討しています。
14代目を継いだ
初のオーナー杜氏は
食中酒を究める
修業を経て、25歳の頃に松浦酒蔵を引き継ぎました。当時杜氏集団の後継者不足から、技術が消滅する恐れがありました。そのため私自身が醸造技術を学び、かつ酒造経営も行うオーナー杜氏として引き継ぐことになったんです。
オーナー杜氏のパイオニアといえば『十四代』の高木顕統さん(高木酒造株式会社)ですが、彼とは昔の見習い先でご一緒していたこともあり、今でも刺激をもらっています。
『十四代』とは?
『十四代』は、山形県村山市で1615年から続く高木酒造が醸造する日本酒。高木顕統さんは、高木酒造の現15代目オーナー杜氏。
実をいうと、大学生前後のころまでは日本酒に対してダサいイメージを抱いていました。酔い潰すための酒、とのイメージが強く「なんか(酒蔵を)継ぎたくないなー。」と思っていたんです。しかし日本酒の《ある魅力》に気づき、今ではついつい飲みすぎてしまうほどに日本酒をこよなく愛するようになりましたね。
その《ある魅力》とは、食中酒としての価値。日本酒のもつ糖化酵素(デンプン質をブドウ糖に分解する)は日本酒だけのもので、料理に眠るうま味を引き出してくれます。料理に日本酒を合わせることで味わいが膨らむため、飲むというよりは「料理と一緒に舐める」ように楽しむのが食中酒なんです。
驚いたことに、食中酒を造るのにぴったりな土地が、ここ山中温泉でした。普段私たちが仕込み水として使用する水は、すぐ近くの医王寺の裏にある『水無山』の湧水で、超軟水。一般的に酵母は硬水を好み、たくさん香りを出します。その一方で軟水ではあまり香りが出ません。
逆にいえば料理を活かす食中酒を造るうえでは、軟水を使用する方が、かえって過度な主張をしないお酒を造れます。この土地だからこそ造れる日本酒が食中酒なんだから、そこで勝負していこうと決めました。
長い発酵期間が生んだ
「鮮」と「杜氏松浦」
酒蔵を継いでからの8年間は、とんでもなく酷い目に遭いました。引き継いだ当初はベテランの造り手をとにかくサポートしようと思い、少しでも蔵内を清潔に保つため、塩素系殺菌剤で一生懸命に清掃をしていました。しかしこの頃から、だんだんと日本酒に変な香りがつくようになったんです・・・
原因は麹室(麹造りする部屋)で蒸米を広げるための合板の台、消毒用の塩素系殺菌剤、そして麴菌との絶妙なミスマッチでした。これらが合わさることで化学変化が起こり、変な香りの原因となっていたんです。
このメカニズムは当時、だれにも原因が分かっておらず日本中の酒蔵が悩み、私たちも例外なく苦しんでいました。酒造りの行程にミスがないか調査したり、試行錯誤したりと、暗中模索をしながら月日が流れていき、本当に身も心もくたくたになったのを覚えています。
それでも常に胸にあったのが、おいしい日本酒を造りたい一心。なんとか良い香りを復活させたいがため試行錯誤をし、生まれた技術が瓶内での二次発酵技術でした。この技術を駆使して生まれたのが日本酒スパークリングの『鮮』で、25年以上続く代表作となっています。
8年間もの長く終わりのない戦いから、酒造り行程を見直したり、技術開発ができたり、また『鮮』の誕生に繋がったりなど、結果的に得れたものはありました。そして私自身も自然と向き合う姿勢が相当鍛えられた。自然の摂理に逆らわず、自らの感性を研ぎすまして酒造りすることの大切を学びましたね。
出会いを酵母に
松浦酒造は
進化してきた
色んな方との出会いとご指導を賜りながら、いまの松浦酒造があります。『鮮』が生まれたストーリーは、まさに象徴的です。
始まりは元ホテルオークラの総料理長・星さんから、和食に合うスパークリング日本酒は造れないかとご要望をいただき、お応えしようとして生まれたのが『鮮』。ネーミングも星さんにしていただきました。
また旧山中町出身で、往年のTV番組『料理の鉄人』でも一躍有名になった創作和食料理人の道場六三郎さんからは、「肉や魚に合わせやすい、いいお酒ですね。」とのご感想をいただき、励みになりました。
この『鮮』は常温流通ができないのが弱点。克服しようと試行錯誤して、なんとか常温流通できるようになりましたが、そのせいで生きた酵母が死滅することになります。なんとなく面白くない日本酒になったと、悩んでいました。
ちょうどその頃、山中温泉の旅館『かよう亭』のお客様として宿泊していた齋藤真嗣さん(医師・『体温上げると健康になる』の著者)から、「生きている酵母を直接体内に取り込む方が、からだにいい。」とアドバイスいただきました。その言葉に後押しさせれて、『鮮』を常温流通させることをやめました。生きた酵母のまま売っていこうと決心しましたね。
こうして色んな方の期待や助言をもとに、ブラッシュアップしてきたのが『鮮』です。何か商品開発をしなくては、と思ったことはなく、出会いと交流を触媒にただおいしい日本酒を造る、その結果として商品が生まれています。
酒造の求人
酒造りの季節労働
現在は正社員を募集していませんが、今後募集する可能性はあります。また冬季に人出が足りない場合、季節労働として関われるかもしれません。求人は毎年変わりますので、ご関心ある方は事前にご相談ください。
数年前からアメリカ人の取材者がアルバイトで酒造りに関わっていました。スタッフは英語がわからないながらも、ジェスチャーや翻訳アプリでコミュニケーションを取っていました。彼女は松浦酒造や山中温泉などを紹介する本『WATER,WOOD&WILD THINGS』を執筆されており、アメリカで出版されています。また『鮮』の英語表記も彼女にお手伝いいただきました。余所者の存在がよい刺激と影響を与えています。
日本酒造り、また自然と向き合う仕事に興味がある方は、まずは季節労働者として関わるのが一歩目。ぜひご検討ください。
『鮮』が生まれた
土地を巡る
移住体験
温泉街を散策、晴れていれば水無山へ。
夕方に温泉に浸かり、最後は『鮮』で乾杯。
移住コーディネーターがご案内します。
(実費分負担あり)
事務所 | 松浦酒造有限会社 |
所在地 | 石川県加賀市山中温泉本町2丁目ソ15 |
スタッフ数 | 2名(正社員のみ) ※冬季限定でアルバイト・季節労働者が増員 |
募集求人 | 日本酒造りスタッフ(冬季限定) ※要確認 |
推奨資格等 | 特になし |